鷹の道

大学院に通っています。中国政治・外交を勉強中。野球を見ます。ソフトバンクホークスを応援することかれこれ15年。

「平成最後の」紅白歌合戦を眺めて

あけましておめでとうございます。

 

この言葉を交わすより前に、中国人と台湾人の友人にそれぞれ新年快乐!,新年快樂!とwechatとLINEで交わした。この状況こそが昨年の大きな変化だろう。中国政治外交研究で大学院に進み、中国・中国人との距離もいっそう近くなった。

 

今年は秋に北京への留学を控え、動きの大きな年になると思われる。「平成最後の」を合言葉とした世間の慌ただしさにどこまで着いて行けるか。

 

 

昨年後半あたりから、やたらめったら「平成最後の」という枕詞を耳にするようになった(「平成最後の夏」あたりからだと思う)。年末の紅白歌合戦はその際たるもので、何かにつけて「平成最後の」と言っていた。

確かに、一つの時代の区切りとして総括したくなる気持ちは分かるし、そうした試みに意義がないとは言わない。そういう意図があったかはさておき、清水真人『平成デモクラシー史』は良かった。

平成デモクラシー史 (ちくま新書)

平成デモクラシー史 (ちくま新書)

 

で、この平成という時代の音楽シーンはどう総括されたのか。

「平成最後の」紅白の最後、ステージで躍動していたのはサザンであり、ユーミンであり、北島三郎だった。

壮観である。おぉっ、となった。

が、同時に言いようのない「昭和感」に悲しさを覚えたのも事実である。演者はもちろん、誰も悪くない。しかし、これではまるで平成は昭和の延長戦をやっていただけみたいじゃないか。実際そうだったのかも知れないが。

 

ここ10年ほどで日本のテレビから音楽番組が減ったように感じる。辛うじてMステが生き残っているが、(Mステに限らず)過去映像でノスタルジーを誘うような構成が目につく。スターがいないからそうなっているのか、そうだからスターが不在なのか。両面あるとは思うが、この環境では「国民的ヒット」は生まれるべくもなかろう。

社会の高齢化でトレンドを引っ張る若者層が弱くなっていることもあるだろうし、テレビというコンテンツ自体の限界も指摘できる。その結果がスター不在の平成時代だったのかも知れない。

 

SMAPも安室ちゃんも小室哲哉もいない今、「平成」を背負って立てるアーティストは本当に少ない。

SMAP小室哲哉がいなくなった経緯(とりわけ小室)を考えても、この時代の生きにくさに思い至ってしまう。

スターを生み出せなかった、潰してしまったこの時代を越えて、我々は次の時代をどう作るのか。この重い問いを紅白の最後の絵面が突きつけいる気がしてならなかった。昭和を懐かしむばかりでは次の時代は見通せない。