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鷹の道

大学に通っています。中国政治・外交を勉強中。野球を見ます。ソフトバンクホークスを応援することかれこれ14年。

イデオロギーの境界を越えて

しばらくほったらかしにしていました。なかなか習慣になりません。

 

 

先週は旅行に出ていました。香港、広州、深圳、マカオを回ってきました。

香港がグローバリゼーションを体現する街で、色んな人が行き交っているというのは言うに及ばずで、むしろ深圳と香港の境界(イミグレを通過するが国境ではない)に目に見えない、しかし高い高い壁を感じたのがこの旅のハイライトでした。

 

旅の初日、九龍ー広州東の鉄道で香港から大陸側に入りました。車窓をぼーっと眺めていると勝手に境界を越えてくれるわけですが、越える瞬間は一目でわかります。香港の北部、羅湖の辺りは九龍や中環のような都会ではなく山!森!川!という感じなのに対して、深圳に入るといきなりビル!ビル!ビル!!だからです。

ビルが林立している、と言ってしまえば香港と変わらないのですが、その街並みは明らかに香港とは違うのです。何とも形容しがたいですが、ビルの建ち方が中国なのです。あとビルの光らせ方も明らかに中国です。原色ゴリ押しでドカーン!!って感じです。何より文字が変わります。看板の簡体字が大陸入りを実感させます。車窓を眺めているだけなのに、この世界の変貌ぶりに鳥肌が立ちました。

 

 

世界には国境紛争なるものがあるように、境界というのはsensitiveなものです。

中東やアフリカのように、かつての帝国主義国家の自己都合で引かれた境界線が今なお尾を引いているパターンもあるし、現在のアメリカ・メキシコ間のように人の移動をめぐって国際問題(国境の問題なので国際問題なのは当然だが)が勃発することもあります。

国民国家の考え方からすると、国が違うと民族が変わる(かなり雑な前提なのは否めない)ので、国境を越えると民族が変わるはずなのです。もちろん現場はそんなにスパッと割り切れるものではないのでしょうが、言語や法といった、国家システムの根幹をなすものは境界で截然と区別されているはずです。だからこそ、民族の分布と国境が一致しない時に問題が発生するのです。

同じ民族グループが国境によって分断されるということもあります。かつての東西ドイツや、現在の韓国・北朝鮮です。冷戦構造の中で、同一の民族がイデオロギーによって分断されました。このタイプの国境は一般的な国境よりも高い壁となって両国を隔てます。ドイツには文字通りの「壁」が存在したし、北朝鮮と韓国の間に設定されているのは「軍事境界線」です。

 

前置きが長くなりましたが、今回僕が行き来した香港と大陸の間の境界もこの「イデオロギーの境界」に該当します。

南では北京政府から「高度な自治」を認められた行政府が(一応)民主主義的なシステムで政治を行い、資本主義経済が発展し、自由な言論空間があります。一方で北では中国共産党の一党体制の下、社会主義という看板と資本主義の現実がせめぎ合い、言論は統制された世界が広がっています。

ただ、上記の他の「イデオロギーの境界」と決定的に異なるのは、行き来が出来るという点です。何といっても同じ国なので。つまり、イデオロギーの境界を肌で感じることのできる世界でも珍しい境界となっているのです。

 

実際に行き来してみた所感として、このイデオロギーの境界は往来の利便性に反して深い溝を感じました。川を越えたあちら側で自由に使えるGoogleTwitter、LINE、Facebookがこちら側では使えないのです。あちら側には無い「社会主義核心価値観」の看板がこちら側では散見されます。同じ中華民族が暮らしているのに、境界を挟んで世界が微妙に違うのです。深圳は大都会なので、都市としての発展度合いは香港に引けを取りません。そういう意味で2つの世界の見かけ上の違いは「微妙」なのですが、この微妙な差こそがイデオロギーがもたらす差で、香港と大陸の間に深い深い溝、高い高い壁をなしています。

 

 

今年は香港の返還20年。あと30年で「一国二制度」が終焉することになっていますが、果たして可能なのでしょうか。イデオロギーの境界を取り払うのは相当の困難が伴いそうです。

 

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