鷹の道

大学院に通っています。中国政治・外交を勉強中。野球を見ます。ソフトバンクホークスを応援することかれこれ15年。

中華人民共和国改憲建議を受けて

politics.people.com.cn

 

平昌オリンピック閉会式直前になって入ってきた、中国憲法改憲案。

おそらくここで発表された案がそのまま次の全人代を通過するのでしょう。

 

日本でも大きなニュースとなっているのが79条改定に伴う国家主席の任期の撤廃。これが通れば習近平はあと4年に留まらず、ずっと政権を維持することが可能になります。「独裁」とも「皇帝化」とも言える状態が実現するわけです。

習近平体制はどのような形でいつまで続くのか、というのは前々から話題にはなっていました。昨年秋の党大会で発表された常務委員の顔ぶれからは5年後に政権移行の当事者となり得る者は見当たらず、何らかの形で習近平が2期10年以上権力の座に居座ることが予想されていました。国家主席の任期を撤廃するか、国家制度の中に新たなポストを創設して院政を敷くか、あたりが考えられましたが、前者の策が採られたようです。

 

任期撤廃は共青団派江沢民派との権力闘争に拍車をかけるのでは、とも思ってしまうのですが、裏を返せば反腐敗運動などを通じた敵対勢力叩きが成功しているとも言えるでしょう。腐敗取り締まりを主管する監察委員会が憲法に明記されるのも今回の改憲案のポイントです。

 

また、第1条に「中国共産党による領導は中国の特色ある社会主義の最も本質的な特徴である」と書き足されるのも興味深いです。党による領導を明記したことをどう解釈するかには様々な見方があると思います。共産党体制の正統性を支えていた経済成長に陰りが見えてきた中で、「依法治国」を掲げ、法律の条文に正統性維持の役割を担わせた、とも取れそうです。「だって憲法に書いてあるから」という開き直り、といったところでしょうか。第1条についても検討の余地がありそうです。

 

いずれにせよ、中国は我々が享受している「デモクラシー」からはまた一歩遠くへ行ってしまいそうです。それが良いのか悪いのか、今の僕には判断がつきません。というか、判断する必要もないのかも知れません。とにかく今は中国がどこへ行くのかをしっかり追っていくのが精いっぱいです。

In Order to Live

更新が全然継続できません。当初はバンバン書いてバンバン更新するつもりでしたが、書けない自分に苛立つばかりなのでスタンスを変えることにしました。気が向いたら書きます。気が向かなければしばらくほったらかしです。これくらいの緩さの方が細く長く続けられるような気がします。続かなければフェードアウトするまでです。

 

今日は読んだ本について。

 

In Order To Live: A North Korean Girl's Journey to Freedom

In Order To Live: A North Korean Girl's Journey to Freedom

 

 恥ずかしながら英語が得意ではなく、少しコンプレックスにもなっています。これまで微妙に英語を避けて勉強してきたのですが、いい加減ちゃんと英語もやらないと、ということで手に取りました。アジア人が書いた英語なら無理なく読めるのではなかろうか、という適当な読みです。

書き手がアジア人だからなのかはわかりませんが、実際読みやすかったです。英語も読みやすかったし、何より内容に引き込まれました。

 

中身は北朝鮮編、中国編、韓国編の3パートに分かれています。北朝鮮編の叙述は本当に生々しいです。キム一族レジームの中で北朝鮮の一般庶民がいかに窮乏していたのか、思想教育がいかに徹底されていたのかが描かれています。中国編では脱北後の過酷なサバイバルの様子、韓国編では自由をつかみ取るプロセスが描かれており、それぞれ引き込まれるのですが、やはり北朝鮮編の内容の衝撃が最も大きかったです。描かれているのが未知の世界だからでしょう。

 

貧しい生活、横行する賄賂、反体制的言動への厳しい取り締まりなど驚かされることが多かったのですが、中でも個人的に最も驚かされたのは、キム一家体制への忠誠心の強さです。

中国も言論統制が厳しさを増しており、表立っての習近平共産党批判はご法度。一部では「習近平礼賛」現象が起こっていることも伝えられています。それでもネットなどでは統制の網の目をかいくぐって体制を揶揄・非難する発言も見られます(もっともすぐに規制されますが)。それだけ国民を政治体制に従順にさせるのは簡単ではないのでしょう。特に今の時代、情報の流れをどれだけ統制しても外からの情報を完全に遮断するのは容易ではないので、プロパガンダによる思想統制も難しいと言えます。

そんな中、北朝鮮の人権概念をガン無視した社会統制は国民の「洗脳」に概ね成功していることが文章から伝わってきます。情報統制、言論統制の厳しさは中国の比ではありません。こうした洗脳は中国に渡っても解けないし、韓国に渡って西側諸国の価値観に触れてもなお、北朝鮮で培われた価値観との葛藤に苦しむ様子が描かれています。

 

僕らが日ごろ報道で接する北朝鮮はもっぱら金正恩であり、核・ミサイル開発です。その独裁体制の裏で一般庶民は厳しい生活を強いられているというのも、よく語られるところです。一方で、こうした庶民の厳しさを伝え聞いたとき、僕らはしばしば「指導者ばかり勝手なことをして、苦しんでいる庶民は怒っているに違いない」と考えます。もちろんそういう庶民もいるはずです。最近は特にそういう声が上がっているらしいです。しかしながらパク・ヨンミの記述は国家による刷り込みの苛烈さをありありと語っています。現体制が続く限り、北朝鮮が「内側から」変わることは見込めなさそうです。暴力を用いた恐怖政治ももちろん恐ろしいですが、価値観の刷り込みによる服従の恐ろしさを感じさせられました。

 

文章の最後の方でも言及されていますが、この本の出版や世界中での言論活動によって彼女が北朝鮮政府に危害を加えられることがないか、心配になってしまいます。金正男のようなことにはくれぐれもならないように気を付けつつ、これからもご自身の経験を語ってもらいたいと思います。

中国政治からみた日中関係

ブログ新設から1年弱、とんと続きません。書く時間がない、書くネタがない、というのは言い訳に過ぎません。卒業論文が仕上がった今、改めて書くことと向き合おうと思います。まぁしばらく論文を書いてはいたのですが。

 

基本は読んだ本について書くことにします。

中国政治からみた日中関係 (岩波現代全書)

中国政治からみた日中関係 (岩波現代全書)

 

 

日中関係を論じたものは数多い中、日中関係の変動要因を中国国内に求めるものは少ないのが現状。著者もそうした問題意識に立って、中国政治、とりわけ上層の権力闘争という点から日中関係を議論しています。

著者は1970年代以降の日中関係を「一九七二年体制」「戦略的互恵関係」という枠組みを用いて分析。

「一九七二年体制」とは国交正常化以来の日中の友好関係のことで、①冷戦体制下でのソ連を仮想敵とした日米中の連携、②経済面(中国近代化支援・相互依存)での共通の合意、③戦争記憶の共有、④台湾問題をめぐる合意、の4点を基礎とします。(154頁)

「一九七二年体制」は教科書問題や光華寮事件の発生にも関わらず1980年代いっぱい続きます。しかし、①冷戦の終焉、②「中国脅威論」の浮上、③戦争世代の世代交代、④天安門事件、台湾民主化による日本世論の変化によって「体制」は不安定化。日中が新たな枠組みを見つけられないまま「体制」の不安定化が進んだ1990年代、歴史問題を中心に日中関係は悪化。2006年に安倍・胡錦涛間で結ばれた「戦略的互恵関係」は未来志向という点で「体制」に代わる枠組みとなり得たものの、日中関係の改善は道半ばといったところです。

 

「体制」の枠組みの中で、どうして1980年代は日中友好を維持できたのか。どうして1990年代以降日中関係は悪化したのか。どうして「戦略的互恵関係」は機能しなかったのか。こうした問いに対して著者は天安門事件までは胡耀邦など政治改革派と保守派の権力闘争、天安門事件後、特に江沢民から胡錦涛への禅譲前後は江沢民上海閥胡錦涛ら青共団派、習近平太子党派の権力闘争によって説明しています。

 

中国の政治過程は一昔前と比べると多元化が進んでいるとは言え、やはり最高指導者の影響力の大きさを感じさせられます。そこを目指した権力闘争が展開されるので、中国政治を見る上で権力闘争の観察は不可欠なのでしょう。しかし中国政治の複雑さは権力闘争だけで語り尽くせるものではないと考えます。官僚機構も関与する政策形成や、近年注目されるネット世論の存在は権力闘争とは別の枠組みで考えるべきでしょう。「中国政治」の議論が指導者層の権力闘争に終始してしまっているのは少し不満であると言わざるを得ません。

 

しかし非常に読みやすく、ここ4,50年の日中関係を概観するのに非常に優れた一冊であると思います。折に触れて読み返すことになりそうです。

新しい中世

コンスタントに書くんだ、との意気込みで始めたはずが、わずか2,3本書いたっきりほったらかしにしておりました。久々に開いてみたらamazonの広告が上に出ている有様。そのまま放置することも出来たわけですが、せっかくなので今日読んだ本について。

 

 

 日本を代表する国際政治学者、田中明彦先生の代表作。

日本の国際政治の教科書ではしばしば言及される本書ですが、読もう読もうと思いつつ今まで通読できずにいました。先月に講談社学術文庫から発刊されたのを機にようやく手に取ることが出来ました。

 

教科書で「新しい中世」について言及されるのは専ら"冷戦後の国際政治の枠組み"について。フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』、サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』と並んで語られます。

冷戦終結によってイデオロギーの対立に終止符が打たれ、自由主義が最終的な勝利を収めたとする『歴史の終わり』に対して、『文明の衝突』はイデオロギー対立の後には文明単位の争いが顕在化し、決して終局的な平和は到来しないと反論。

どちらが正しい(正しかった)かを評価するのは難しい、というかどちらもある意味において正しいのです。『文明の衝突』は発表当時多数の批判に晒されたものの、冷戦後のユーゴスラビアでの紛争、9.11同時多発テロなどを見るに、ハンチントンの議論は特定の地域において妥当しているように感じられます。このような事例を見ると『歴史の終わり』に妥当性を見いだせなくなりそうですが、ヨーロッパにおけるEUの拡大、東南アジアにおけるASEANの拡大を前にすると、自由主義イデオロギー勝利が平和を導出している、という議論も頷けます。いわゆるデモクラティック・ピースがアメリカの対外政策に応用されたのも90年代のことです。尤も、デモクラティック・ピースはあくまで19世紀のカントの議論の有意性を統計的に示したものであり、自由民主主義を平和と直結させて外交政策に応用するのは必ずしも適切とは言えないのですが。

 

 

そして本題の『新しい中世』です。極めてザックリ言うと、相互依存が進み、非国家主体の影響力が増した世界はかつての中世に近似している、という議論です。

中世という発想自体は完全に田中明彦オリジナルというわけではなく、英国学派の代表格ヘドリー・ブルがすでに議論していますが、田中は中世という概念を冷戦後世界という文脈に沿って説明しています。

田中は世界を「新しい中世」への移行段階であると述べ、世界を第一圏域(新中世圏)、第二圏域(近代圏)、第三圏域(混沌圏)に分類している。成熟した自由民主義体制を有し、安定した市場経済を有する国家を第一圏域、政治的に無秩序で、経済が停滞、混乱している国家を第三圏域、それ以外を第二圏域と定義。第一圏域は新中世に到達しているが、第二圏域はその条件を十分には備えておらず、19世紀~20世紀前半にかけての国民国家の原理が機能していると言う。

第一圏域内では国家の存在感は後退しており、相互の信頼に基づく国際関係が構築されると言う。これはフクヤマ的議論ではないだろうか。第二圏域内、または第一圏域と第二圏域では依然従来の近代国家観に基づく外交が続いており、軍事力も含めた多様な外交手段が取られうる。

 

 

さて、読後の所感をここに記しておきます。

「新しい中世」というモデル自体は頷けるところが多いです。国際法の存在というのが中世と現代(新中世)の大きな相違ではないかと思いますが、中世においてはキリスト教の存在が現代の国際法に準ずる役割を果たしていた可能性を指摘できそうです。

モデルはさることながら、個人的に気になったのは3つの圏域のうちの第二圏域の広さです。政治、経済指標の数値を用いて分類を行っているのですが、第二圏域にはかなり多様な国家が同居しています。20年前のデータですが、シンガポール北朝鮮が同じ第二圏域に属しています。もちろん個別の政策論をするときには各々の事情を考慮するわけですが、この広さは理論枠組みとしてはやや粗いと言わざるを得ません。

 

そして、ナショナリズムについてです。田中は「『新しい中世』の国家にナショナリズムは必要ない」(p264)と述べていますが、現在の現実を見ると、中世化が進んでいるはずの先進国でも強いナショナリズムが台頭している様子が窺えます。おそらく、グローバリゼーションが深化した新中世の価値観を受容した人々、即ちいわゆるリベラルの人々はナショナリズムについて「必要ない」と心底感じているのでナショナリズムを叫ぶ「極右」への拒絶を示すのでしょう。心情的にはとてもよく理解できるのですが、「必要ない」という理由で切って捨てるのは一種の思考停止なのかも知れない、と最近感じる次第です。

そういえば中世ヨーロッパでは封建制の下、身分の流動性に乏しい世界が広がっていました(いささか唯物史観的ですが)。

新中世に広がるナショナリズムの波。ここにヒントを求められるかも知れません。

イデオロギーの境界を越えて

しばらくほったらかしにしていました。なかなか習慣になりません。

 

 

先週は旅行に出ていました。香港、広州、深圳、マカオを回ってきました。

香港がグローバリゼーションを体現する街で、色んな人が行き交っているというのは言うに及ばずで、むしろ深圳と香港の境界(イミグレを通過するが国境ではない)に目に見えない、しかし高い高い壁を感じたのがこの旅のハイライトでした。

 

旅の初日、九龍ー広州東の鉄道で香港から大陸側に入りました。車窓をぼーっと眺めていると勝手に境界を越えてくれるわけですが、越える瞬間は一目でわかります。香港の北部、羅湖の辺りは九龍や中環のような都会ではなく山!森!川!という感じなのに対して、深圳に入るといきなりビル!ビル!ビル!!だからです。

ビルが林立している、と言ってしまえば香港と変わらないのですが、その街並みは明らかに香港とは違うのです。何とも形容しがたいですが、ビルの建ち方が中国なのです。あとビルの光らせ方も明らかに中国です。原色ゴリ押しでドカーン!!って感じです。何より文字が変わります。看板の簡体字が大陸入りを実感させます。車窓を眺めているだけなのに、この世界の変貌ぶりに鳥肌が立ちました。

 

 

世界には国境紛争なるものがあるように、境界というのはsensitiveなものです。

中東やアフリカのように、かつての帝国主義国家の自己都合で引かれた境界線が今なお尾を引いているパターンもあるし、現在のアメリカ・メキシコ間のように人の移動をめぐって国際問題(国境の問題なので国際問題なのは当然だが)が勃発することもあります。

国民国家の考え方からすると、国が違うと民族が変わる(かなり雑な前提なのは否めない)ので、国境を越えると民族が変わるはずなのです。もちろん現場はそんなにスパッと割り切れるものではないのでしょうが、言語や法といった、国家システムの根幹をなすものは境界で截然と区別されているはずです。だからこそ、民族の分布と国境が一致しない時に問題が発生するのです。

同じ民族グループが国境によって分断されるということもあります。かつての東西ドイツや、現在の韓国・北朝鮮です。冷戦構造の中で、同一の民族がイデオロギーによって分断されました。このタイプの国境は一般的な国境よりも高い壁となって両国を隔てます。ドイツには文字通りの「壁」が存在したし、北朝鮮と韓国の間に設定されているのは「軍事境界線」です。

 

前置きが長くなりましたが、今回僕が行き来した香港と大陸の間の境界もこの「イデオロギーの境界」に該当します。

南では北京政府から「高度な自治」を認められた行政府が(一応)民主主義的なシステムで政治を行い、資本主義経済が発展し、自由な言論空間があります。一方で北では中国共産党の一党体制の下、社会主義という看板と資本主義の現実がせめぎ合い、言論は統制された世界が広がっています。

ただ、上記の他の「イデオロギーの境界」と決定的に異なるのは、行き来が出来るという点です。何といっても同じ国なので。つまり、イデオロギーの境界を肌で感じることのできる世界でも珍しい境界となっているのです。

 

実際に行き来してみた所感として、このイデオロギーの境界は往来の利便性に反して深い溝を感じました。川を越えたあちら側で自由に使えるGoogleTwitter、LINE、Facebookがこちら側では使えないのです。あちら側には無い「社会主義核心価値観」の看板がこちら側では散見されます。同じ中華民族が暮らしているのに、境界を挟んで世界が微妙に違うのです。深圳は大都会なので、都市としての発展度合いは香港に引けを取りません。そういう意味で2つの世界の見かけ上の違いは「微妙」なのですが、この微妙な差こそがイデオロギーがもたらす差で、香港と大陸の間に深い深い溝、高い高い壁をなしています。

 

 

今年は香港の返還20年。あと30年で「一国二制度」が終焉することになっていますが、果たして可能なのでしょうか。イデオロギーの境界を取り払うのは相当の困難が伴いそうです。

 

香港 中国と向き合う自由都市 (岩波新書)

香港 中国と向き合う自由都市 (岩波新書)

 

 

ポピュリズムとは何か

これ昨年のイギリス国民投票あたりからの疑問だったんですよ。

日本の報道で「ポピュリズム政党」などの言葉をたびたび耳にしますが、結局のところポピュリズムとは何なのか? 日本の報道で用いられるポピュリズムは「大衆迎合で中身のない」みたいなニュアンスだと理解しています。いやいや、でも民主主義でやっていく以上、政党が大衆の方を向くこと自体は原理的に問題ないですよね。それにポピュリズム政党の政策を嘲笑できるほど、他の政党は中身の詰まった政策を打ち出せているのでしょうか。こう考えるとやはりツッコミどころの多いフレーズです。

 

というわけで、今日読んだのがこちら。

 

 ポピュリズムの概説書と言える一冊。タイトル通りです。

 

著者によると、現代のポピュリズムは民主主義、自由主義という既成のロジックを用いている点で民主主義社会ならではの現象とのこと。彼らは決して権威主義全体主義を標榜しているわけではなく、ポピュリズムを民主主義の対概念として扱うのは不正確なのです。

日本(に限らず?)のリベラルを中心に、ポピュリズムの台頭を「民主主義の危機」と位置づける言論が散見されますが、民主主義のプロセスによって台頭したポピュリズムを民主主義の敵とみなして拒絶する姿勢は民主主義そのものの否定につながり、ひいては自己否定につながりかねません。たとえそれが自分にとって不本意であっても、選挙によって導出された民主主義の結論は受け容れる。これが民主主義のルールというか、マナーなのではないでしょうか。この点で(ポピュリズムの文脈からは立場が逆ですが)大阪都構想をめぐる住民投票に敗れた時の橋下徹市長の姿勢はとても「民主主義的」であったと言えるでしょう。一方でアメリカ大統領選でトランプが勝った際に抗議(?)デモが行われていましたが、選挙結果そのものに抵抗行動を起こすのは民主主義への反旗と言わざるを得ません。

 

そして、日本の報道におけるポピュリズムの扱いで僕が気になっていたことがもう一つ。なぜか「ポピュリズム」と「極右」は常に同列に置かれています。そもそも何をもって「極右」と定義するのかが漠然不明瞭なのですが、その点は今回は置いておきます。それでなお疑問なのは、「ポピュリズムは極右なのか?」という点。

確かに、各国の事例を見るとポピュリズムと言われる政治集団は濃いめの右寄りであることが多いのは分かります。しかし、それを以てポピュリズム=極右と決めてしまってよいのか。また、それが言えるのであればなぜなのか。この点についても文中に記述がありました。

結論だけ記すと、ポピュリズムは排外的要素が強く、ナショナリズムを喚起する点では「極右」と分類されうるのですが、必ずしも右寄り思考とも言い切れない、ということです。ヨーロッパのポピュリズム政党はフランスの国民戦線はじめ老舗の右寄り政党であることが多いので、ここだけ見るとポピュリズムと極右が結び付きそうなところですが、既得権益(establishment)の対立軸になるというのが現代のポピュリズムの第一義で、既得権益を肥大化させたグローバリゼーションを否定する結果、排外主義的になる、というのがポピュリズムのおおまかな考え方なので、ポピュリズムと極右思想はぴったり重なるわけではないのです。

 

日本では維新の党が台頭したとは言え、既成の政党、政治集団を脅かすようなポピュリズム的政治集団は目下現れていません(維新がポピュリズムなのか自体微妙なところですが)。日本にはestabilishmentへの不満は存在しないのか、あっても投票行動に表れないのか、あった上で既成の政党が受け皿となっているのか、議論の余地がありそうです。ただ、ここ数年の国政選挙で維新と並んで共産党議席を伸ばしている状況や、東京都では小池知事が自民党既得権益と位置づけて公然と敵視することで支持を集めている状況を見るに、日本政治にもポピュリズムの潮流は確実に存在しそうです。

国際政治学の意味

思いつきでブログを開設したのが1か月前。ほぼ3日坊主でほったらかしにしてしまいました。はてなブログから「1か月ほったらかしにしてるけど、更新しないの?」と催促されたことで重い腰を上げてここに戻ってきた次第です。

今月来月の2か月は大学の授業がないので、腰を据えてたくさん本を読むことにしています。ここで読んだ本に関してウダウダ書きながら更新習慣をつけていきましょう。ここに書くということが読書のモチベーションになるかも知れないし。

 

 

というわけで一発目はこちら。

 

戦争の条件 (集英社新書)

戦争の条件 (集英社新書)

 

 

2時間で読める国際政治関係の本を大学図書館で探して出会いました。藤原帰一といえば言わずと知れた日本を代表する国際政治学者です。

 

入門書というか、学問としての国際政治学の考え方を誰でも分かる平易な言葉で説明している本です。

 

この「誰でも分かる」というのが国際政治においてはとても厄介です。著者も最後に書いているのですが、国際政治はかなり開かれた学問分野です。理科学系や経済学のような難しい数式は出てこないし、哲学や歴史学のような実生活からの「遠さ」もありません。毎日テレビでニュースを観たり新聞を読んだりするだけで国際時勢について知れます。そこで見聞きした情報に対して何か考えればそれだけで国際政治のフィールドに参入できるわけです。教科書を読んだり、学者の講義を聞くことは必要条件にならないんですね。特に最近はネット上で誰でも手軽に発言できるし、何なら学者と議論もできちゃうわけです。

 

一般人の見解と学者の思考が同列に並べられてしまう中、自分は何のために国際政治学をやっているのだろう、と疑問に思うことがしばしばあります。外交官や政治家と違って、学者は政策や国家の対外方針への関与が限られています。国際政治学者がただ「言いっ放し」のポジションであれば、それは最早一般人と同じじゃないのか……? 

 

 

この本はこんな僕の疑問に直接答えてくれるわけではないのですが、国際政治学の思考法・エッセンスが詰まっています。巷で目にする「こう考えれば、こうすれば万事解決!」というものは国際政治には決してありません。そんなものあれば国際政治学など必要ないのです。こちらが立てばあちらが立たぬ、といったジレンマの中、一つひとつの状況を丁寧に、多角的に観察した上で誰がどうするのが誰にとってベター(ベストではない)のかを考察するのが国際政治学の役割です。

これをやるには報道をザッピングするだけでは不十分で、ベースとなる考え方を得るために古典を読んだり、学者の見解を見聞したり、外国の方とコミュニケーションを取ったりといったことが必要になるのです。

 

一般人の見解はどうしても一面的になってしまうし、政治外交の現場で働く人たちはどうしても近視眼的になってしまう。そこで巨視的に、大局観を持って国際政治の流れを読むのが学者の立ち位置ではないでしょうか。

 

 

この『戦争の条件』も、書いてあること自体は「そりゃそうでしょ」ツッコみたくなるような常識に近いものですが、重要なのは結論ではなく(この本では結論も読者に委ねられていますが)、思考のプロセスや葛藤なのです。文中の議論を通じてこの「悩みの重要性」を改めて突き付けられた思いがします。

分野そのものが世俗化しているだけにいちいち悩みまくっていると何となくバカっぽく見えてしまうかも知れませんが、悩まず結論ありきで突っ込んでしまう方がバカなのです。

頑張って悩みます。